NOBUKO in PARIS 笑 NO.2

パリで想い馳せる人生の振り返り
PARIS VS MIYAZAKI
どこから想い返したらいいのか分からないので、せっかくのこの「NOBUKO in PARIS笑」で自分のこれまでのことを書いてみようかと思いました。
キラキラのパリだからでしょうね。自分の実家のことを思い出すと何だかこんな世界があったなんてあの頃の私には想像できないだろうなと。私は宮崎県宮崎市のはた産婦人科で生まれたと聞いています。3820 gのビッグベビーで陣痛から3日間かけて生まれて仮死状態だったそうです。先生が逆さまにしてお尻を叩いて何回目かで鳴き声を聞いたと。その後は病弱で喘息、アトピー性皮膚炎持ちの入院生活でした。父の仕事が高校の教師で、当時は都城西高校に通っていましたが私の喘息が激しくなり、寒暖差が激しかった都城から比較的温暖な宮崎市に住む祖父母の家の隣に家を建てて引っ越してきました。
自然あふれる場所といえば子供にとっては恵まれていたのかもしれませんが、家の周りにはスーパーと小さな商店街があったくらいで、夜は静かすぎて耳が痛くなるほどでした。
真っ暗な空の星を何度も見つめていました。
ここのパリとは大違い。人の行き交う街並み、話が絶えないカフェ、色鮮やかなファッション、美しいお料理、全てが魔法にかかったような景色でした。

不器用な小学生・いじめ・無視
パリはちょっと違うのかもしれまでんが、大人になってアメリカに行った時にすごく気が楽だったのを覚えています。それは、私が良くなかったり、間違っていたらストレートに「宣子違うよ」って言ってくれる文化だったからです。私は幼い時からあまり友達と群れることが得意ではありませんでした。幼少期に入院生活が多かったからか、病院での大人との触れ合いが多かったからか、集合住宅に住んでいるグループの仲間に入れてもらいたくても入れませんでした。仲良くなるきっかけ作りが下手で、人と連むことができないのは結構長く続きました。何でしょう、人に気に入られようとするのが下手なんだと思います。社会人になってからも苦労しました。今もそんなところもあるかもしれないですね。小学校低学年までは一人で好き勝手遊んでも何もなくて良かったんですが、高学年になると思春期が入ってきて女の子と男の子で別れて遊ぶようになるのですが、私はあまりそういうことを気にせずにドッチボールが好きな子だったので男の子とか関係なく遊んでいました。当時はやっていた交換日記とか、皆んなでトイレに行くとかなかなかできないタイプで一人になることが多かったです。いじめと言っても当時は無視されるとか、体育の時にいつも一人にさせられるとかそんな感じでしたが、塾や習い事では仲良くしてくれるとか、学校では仲良くできないけどここだけだからねとか言われていました。今思うと私は女の子からしても扱いにくい子だったと思います。いじめられる側の私にも原因がかなりあったように思います。そしていじめられている期間は一人で図書館に行って本を読む時間にしたり、こっそり家に帰って一人になる昼休みだけ家でテレビ見たりしていました。近かったので。笑 昼休みに帰ってくるとおばあちゃんとおじいちゃんがいるので一緒にこたつに入ってみて、掃除の時間になると学校に戻っていました。いじめもしばらく経つとなくなるのでそれまでの辛抱くらいで、一人の時間をどう過ごすかを考えていましたね。一人が辛いというよりは、周りからあの子一人なんだと思われるのが恥ずかしくて誰でもいいから一緒にいてくれる人をキープすることを優先していたようにも思います。

都会への憧れ・ドラマの世界と現実の落差
とある交差点、パリの人々がみんな一人でそれぞれの目的地へ向かって歩いています。小学校の頃の友達ができないなんて全く気にすることなったのに、視野が狭いって怖いですね。もう人生終わりだー!どうしようくらいに思った時期もありました。今、小学校に出会った時の友人は一人もいません。無理に友達を作ろうとしなくていいということに気づけませんでした。
友達作りが下手な私は、中学・高校と、とにかくドラマが好きで夢中で見ていました。学校の帰りにカフェでお茶をするシーンとか、あの飲み物なんだろう、あのオシャレな食器はどこに売ってるんだろう、可愛いケーキはどんな味がするんだろうとドラマの中の主人公になりきって、どちらかというとその都会を楽しむシーンを何度も何度も見返していました。オシャレな洋服や、お店、、、私の学校の帰りは右を見れば田んぼ、左を見れば山でした。学校の帰りに何度田んぼに落ちたか分かりません。街灯もなく月明かりで帰ることも多かったので自転車で曲がり角の感覚をミスると落ちるんです。落ちたら泥だらけになるので自転車を引き上げて帰って自転車の泥を流すのですが、そうすると錆びてキーキーいうので「のぶちゃん、落ちたやろ」って言われるのが本当に恥ずかしかったです。あのドラマと今は同じ世界にあるのだろうかと不思議でした。パリの道が好きでした。レンガ道で歩きにくいところもあるけれど、おしゃれでこの整備された綺麗な道路、両脇に綺麗に並んでいる街路樹、道路が格子状にデザインされているのを見て、田んぼに落ちた自分を思い出しクスッと笑ってしまいました。

初ブランドVitton
パリにきて初めてブランドのことを思い出したんです。高校生3年生の時に母がヴィトンの財布をくれたんです。母は何故かブランドが好きでした。大きめの財布に変えるからと、折りたたみの財布でした。茶色の皮で、ローマ字が入っていて何だかおじさんの財布みたいなだと思って気に入っていませんでした。ところが次の日、その財布を高校に持っていくと、いろんな人から「のぶちゃん財布見せて」と来るのです。オシャレな雑誌を読んでいる子は東京のファッションやブランドを知っている子もいて、宮崎にはないヴィトンの財布をのぶちゃんが持っているらしいと何人も見にきてくれました。その時、「へーこの財布、価値があるんだな。」くらいにしか思ってなかったですが。あの時の私と今目の前にヴィトン本店がある37歳。20年でこんなに世界が広がったと思うと人生何が起こるか分かりませんよね。この時に使っていた携帯のカバーもヴィトンです。笑
その後、東京に来てブランドという世界にどハマりしました。そもそもブランドがよくわかっていなかった私は、その価値がわかりませんでした。品質がいいから高いわけではなく、デザインがかっこいいからはあるかもしれませんが、明らかに私が持っているカバンの方が安くて長持しそうなのに、信じられないくらい高いのです。なぜ?と疑問でした。ただ、当時はDCブランドブームでして、大学生をはじめブランドが大流行していました。宮崎には1個も見たことがないブランドばかりでしたが、ある日新宿で私の財布と同じデザインのお店を発見します。え?黒い服を着た人が2人立っていてドアを開けています。そして恐る恐る入ってみることにしたのです。この財布と同じデザインのバッグや、アクセサリー、洋服などがずらりと並んでおり、値段を見ると私の家賃よりも高い!びっくりして確認するとやはり私が持っているバッグより何倍も高くて驚きました。ただ、このブランドによって私は救われることになるのです。

東京の女になる!
ブランドに救われたとは、どういうことかと言いますと、大学で東京に出てきたときに見た目がダサすぎたんでしょうね。誰が見ても田舎からきたとカモだったんだと思います。新宿を歩けば声をかけられてものすごく高い美容器具を買おうとさせられて無理やり高額なローンを組ませようと脅迫めいたものにあったり、勧誘のテレフォンダイヤルのバイトのティッシュを何十個も渡されたりと、ちょっと危ない目にも遭いそうになりました。そこでどうしたらいいのか分からなかったんですが、東京生まれの東京育ちのまさに江戸っ子キラキラ女子が友達になってくれまして、その子がたくさんのブランドものを持っているわけです。しかもその子と一緒にいると勧誘にも合わないし、ティッシュも渡されないんです。もしかして?と思って思い切って貯金を全部使い果たしてヴィトンのバッグを買いました。すると私は何も変わっていないのに声を変えられなくなったのです。もしかして、ブランド品を持てば東京の人になれるのかもしれないと浅はかな考えを信じきって、それからというものバッグを持てば東京女に変身!くらいに思っていました。可愛いですよね。笑

自分で決める将来の夢
ブランドの話で少し話が飛んでしまいましたが、私の父は、高校の先生と話しましたが、母は私も高校の先生にしようとしていました。「のぶちゃん、公務員になりなさい。安定収入だし、年金ももらえるから、学校の先生になって学校の先生同士と結婚しなさい。そして、実家の近くに家を建てて、私たちが孫の面倒は見るから共働きしなさい。それが一番幸せよ。」と何度も何度も呪文のように言われました。最初はそれもアリかと思ったのです。学校の先生しか職業を目の当たりにすることがなかったので、どんな仕事かはわかっていました。ただこれが幸せだと思うかどうかは人それぞれだと思ったのも事実です。父にとっては天職だったと思います。ただ、私の性格からして学校の先生になっていたらやめていたかもしれません。パリでこんな素敵なケーキを見ると、何かを決める時の選択肢ってとても大事だなと思うんです。宮崎にいた時に(今はあると思うのですが)こんなパリにあるようなケーキを見たことがありませんでした。見た目だけではなく、味もいろんな果実やお酒が使われていて、熟練して職人さんの芸術のような作品です。幼い頃の私は数種類のケーキしか知らなかった私はショートケーキとモンブランしか食べたいと言いませんでした。たまにシュークリームが食べたいと言っていたと思いますが、フランボワーズという言葉も知りません。せいぜい母の作るアップルパイくらいでしょう。知らないということが嫌だったんです。都会に行きたい、都会に言ってラフランスという果物を食べてみたいなど、私には知らないものが多すぎて、もっと知りたい欲が強かったのです。全てを知った上でショートケーキを選ぶのと、ショートケーキしか知らないのでは違う気がしたのです。


これはKUSUMI TEAに伺った時のこと。
当時は知らなかったブランドでした。美味しい紅茶のお店です。
知りたい・・・これが私の原点なのかもしれません。
では次回自分の人生を決めるきっかけについて話してみたいと思います。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
宮崎宣子














